警察の腐敗・・・「悪魔と踊ろう」       ~尋問の儀これあり~

四万十川沿いの町で、仕事中の銀行員が殺害され現金を奪われたが、犯人は、警察幹部の親戚だった為、警察は「隠ぺい工作」を画策し、この事件の犯人を割り出した警察官(私)は、ミミズのように蒸し込まれた。

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聞き取り民族学




              「聞き取り」民俗学


 英雄や豪傑・剣豪。完全無欠の偉人列伝にあこがれたのが、
最初の読書のきっかけだったが、

数々の説があるのも事実らしく、どう考えても無理がある「お話」が多い。

 たとえば「宮本武蔵」の戦いでは、やたらジャンプするが、
人間が飛び上がったら、着地地点は万有引力の法則により、ほぼ見当がつく。

「飛ぶ」時間より「動く」時間は短い。

横に飛べば、相手の「ふい」をつく「時間差」攻撃ができるが、
上に飛べば着地の段階で不利だ。

しかも、重たい刀を持って、そのような動きはできない。
巌流島では「砂」の上で、あれほど? ジャンプしたの?・・・

私は元「空手」ですが、とび蹴りは、相手が「素人」でないと当たりません。
いくら練習しても落下速度は同じです。


 織田信長の「鉄砲」はどうだろう?「鉄砲」は日本で造りましたが、

火薬は輸入品です。では、、どこから??・・・手に入れた?・・

「物」を手に入れる為に「どうした?」・・・・・・・・・?
・・・・・・・このあたりに~信長のホントの姿があるように思いますが・・・


 ま~・・ 最近では「偉い」人はいないが、「すごい」人はいた。と思うようにしています。

私が、そう思うようになったのは昔々、祖母からきいた「サムライ」の

話を思い出してからだ。


 

   「映画では立派なモンじゃが、サムライじゃ言うモンは、きたない

      カッコウをして、たぶさん(ちょんまげ)も結う金が無いから

       いい加減なモンじゃった。 ・・・そのくせ刀でケンカしよった。

            体の前の傷は、いくらあってもいい。

            ・・・~後ろの傷は、相手に自分の背中を見せたヒキョウ傷」




 明治初期、祖母は自分の目で事実を見ていた。



  民俗学では、多くのサムライの収入は、当時の大工(昔は特殊技能者)

の収入より少ない、との資料がある。祖母の言い分は正しかった。


 幕末・明治維新の夜明け前、四万十川流域からも官軍に加わり
会津を攻めた若者が多数いたそうです。彼らは「維新」の理想論に燃え出撃した。

と、書いているのが「受験参考書」。
当時「書物」は「高級品」だった。

ですから、どれだけの「理想論」があったのか?・・・疑問です。

 私が聞く土佐民俗学の一員の資料には、官軍に参加した若者の中には

    「お前たちは、戦いに勝って、帰ってきた者は

                  士分を取らす。~帰ってきたらサムライだ」



と、言われ参戦した者もいる。との事です。

 これは、あきらかに詐欺だが、なにか?信ぴょう性を感じなくてはいられない。

「寺小屋」の時代、「働く」「食う」フタツしか無い時代。

なにが ~イデオロギーか????~なにが「理想」か?

これも当時、生き残った者から「聞き取り」調査した記録です。



 「聞く」「見る」とは極めて単純な事実の集合体ですが、なかには面白いのもあります。
“思い出した”ので、紹介します。




 四万十川中流域・旧西土佐村(現在・四万十市西土佐)。

ここの「村史」に年貢に関する逸話がありました。

 江戸時代・年貢(税金)が払えない場合、
「お役人」の差配で~労働で支払う労役(土方)の仕事がありました。

        男と女では腕力に差があるので

                女は男の半役(半分の賃金)

との取り決めがあった。

 しかし、土佐には女相撲の歴史があり、力自慢の大女は納得できない!

           「女にも色々ある、並みの女と一緒にするな!」

お役人に食って掛かり

            「それなら、力を見せてみよ」

と、あいなった。

よし、それなら、と、

四万十川の川原に転がる大石を指差し

         「これを、持ち上げたら男と同じ役分(賃金)にしてくれ」

とルールを決めた。

 それは男でも、並の“きゃしゃな男”では、無理な大石じゃった。

        「よし、よかろう、それを持ち上げたら役分は、男と一緒じゃ」

お役人もルールを認め、女の前にドッカと座り込んで見届ける。

大女は「たかが、このぐらいの石」と、両足をひろげ、腰を落とし、

石をグッと抱きしめ「ヘソ」のあたりまで持ち上げた時、フト~前を見た。

あ、・・・江戸時代・・・女性はパンツをはいてない!

 お役人の視線(この場合は目線)は、石より下の・・女性の下半身に集中していた。

     エッチ・・・とは言わなかった。・・・と、~思う???

これに気付いた女は、フト~“反射的”に、、、~片手で着物のスソをオサエタ。

 片手がスソなら~大石を持つ手も片手だ。瞬間、大石はドスンと川原に落ちた。

   そのとき、お役人が、やたらカッコウをつけて

     ・・・・・・・・・一言

           「やっぱり、~女は半役」

と言った。

     いい時代だ!


私が、こういう時代に生まれていたら、

         もう少しマジメに警察の仕事をやっていたか??・・・・

 しかし、このような「聞き取り」民俗学の一端を「村史」に残すマジメ? さも、
いかにも土佐的な雰囲気で、

それを思い出してブログに書く人も、やっぱり土佐的でしょうか?

 今の世の中「簡単」な事でも「ムズカシク」表現したら「偉い」と、

思っている「アホ」がいる中で「見た」「聞いた」「思った」・・・など

「聞き取り」民俗学ができるのは、やっぱりブログですか?・・・

私~・・オジサンは、最近ブログをハジメテ、

やっとこさ、最近の・・・ 今日このごろ、そう思いだした。

 
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  1. 2014/04/01(火) 15:25:58|
  2. 四万十川
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四万十の忍者

               四万十の忍者 (デコ廻しの詩)                            
 



      「姓はエビス。名はサブロウサエモン。

            年は、そろそろ150歳の後半じゃが

                                まだまだ、若い」

 


大きな目に、満面の笑みをうかべた人形がチョコンと座っていた。

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デコ人形
(高さ  50センチぐらい)



 民族学的には、江戸時代とは明治初期までを一区切りに考えるらしい。

その江戸時代後期から明治初期にかけ、「デコ廻し」と言われる漫才のような

演芸を各地で見せながら人々の心をつかみ、その地域で情報収集をした

四万十の忍者が使った人形である。

 
 テレビ・映画に出てくる忍者は、黒装束の剣の達人・超人である。が、現実

の社会で最も重要な事は、敵方の情報である。その情報を味方に運ぶ際、

敵方に発見されそうになった時にのみ、剣が必要であろうが、

実際に剣を抜いた時は、全てバレタ~後始末であり、諜報活動は失敗で、あとは、逃走あるのみ。


 もっとも戦国時代には、後方かく乱をねらった、夜盗・盗賊風の荒手がいたようだ。



 藩政後期には、紙・砂糖など、ほとんど全ての商品ごとに藩が問屋を指定し

不当な安値で独占買い入れさせ、買い叩き・買い占めによって収奪、利益をむさぼった。

 
 年貢と買い叩きで、ギリギリの生活しかできない農民は、天候不順等・わずかな・つまずきで、餓鬼状態に追い込まれることもあった。

 特に、生産力の低い山地農業に依存する四万十川沿いの山村ではそうであった。


徳川幕府が倒れ、「葵」が「菊」に変わった明治維新。~物情騒然と「御一新」といっても村人の暮らしが、ある日突然変わるわけがない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(現在と、よく似ている。政治の変化は、希望の変化である。)


 かけ声ばかりでチットモよくならない、日々の苦しい暮らしの中で、新しい政府、天朝さま の「世」に対する期待が、

期待の波動の大きさに反比例し、絶望感へ一転し、そのテコの力で増幅した波動は、農民の蜂起・暴動へと進行するのに、

さほどの時間は必要なかった。


 近世300年、それほど起こらなかった百姓一揆が、幕府滅亡の慶応2年から明治初年にかけ空前の高まりを見せた。

みんな~何かを期待して、何かの変化が~「当然起きる」~「起きるはずだ」と、漠然と思い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・何か?・・が、変わっていた。・・・・・・山村の維新である。



 明治3年3月~5月にかけ、宇和島藩領(愛媛県)では農民騒動・三間騒動が起きた。宇和島藩領から四国山脈を越えれば四万十川である。

即・これに連鎖反応を示すように、土佐(高知)藩の十和村で十川一揆。

次に幡多郡岩田村大用寺(四万十市)一揆と、南予(愛媛県南部)から四万十川を下り一揆が一気に進行した。

が、この内・土佐藩の十川・大用寺一揆は未然に抑えられ、首謀者は捕縛され打首獄門の極刑に処せられた。

 
 ナゼ、土佐藩の一揆が二件とも未発に終わったのか?

歴史上は、裏切りにより、内通されたと、・・あるが?・・・・・・・・・・・・・??

正式の歴史と言うのは、後から・うまく組み立てられた場合が多々ある。

歴史上の英雄豪傑は、完全無欠の人物ばかりであるが、はたして、そうだろうか?



 デコ廻しは、郷士・庄屋をはじめとする地主層に組する諜報機関である。

相方のデコ人形を連れ各地を点々と回り、赤貧洗うがごとき何の希望も無く、ドン底で暮らしている人々の前で、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大きな低い声を出し、はやしたてる。

              「トートータラ~リ・ト~タラ~リ・・ト~ト~タラ~リ・・・」

一文銭の真ん中に開いた四角い穴に、~(■)~・・・上から水を一滴たらし、みごと~銭の穴を通し抜く術を持っていた。

                ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「ト~ト~タラ~リ、トータラ~リ・・・」

  人々が輪になって集まった。

      仕事じゃ!

 あたかも、デコがコッケイな演芸をするがごとく、デコの手を振り首を動かす。~まるで生きているようだ。そして、歌い出す。




            ~ エビス笑い(デコ廻し の唄)~

   

     エビス・サブロウサエモンどのが、お生まれなされたお誕生日は?

    いつか?と、ゆうたら、正月3日・寅の日天(にってん)

    まだ 馬の刻に  や~す・や~す  と生まれなされた。

    誕生祝いに きだる(木樽)まきだる ながやのちょうし

        もりかけ   ほりかけ

                  ベッピンさん  の おしゃくじゃ

酔うた 酔うた と 酔うた まぎれに

     浜辺に出たら、 あれも漁船 これも漁船

  金の釣りさわじゃ 錦の山じゃ、エビのまきえで、

       大鯛・小鯛を バタバタと つり上げたよ

           めでたや~ めでたや~ めでた・めでたの鯛ずくし

正月2日は くちびだい    花の3月 さくらだい

              ぴんとはねるは  はめこだい

  若いおひとの たい よりも  私しゃ まちごうて

     朝りゃ  とうから飲みたい 食いたい もらいたい

        もらうかどには、福がくる

                     めでたや~   めでたや~



   「エ~ビス、サブロウ~サエモンどのが、お生まれなされたお誕生日は~」

眼の前に現れた、おかしな芸に、人々は現実から解放され凝視する。

  デコがおどけて、ますます歌う。

       「酔うた~酔うた~  酔うたまぎれに~・・・・・・・」

酒なんか飲むゆとりはない。メシが食えんのにデコは酔って歌っている。

        「金の釣りさわじゃ~ 金の糸で~」

この世には無い めでたい めでたい おもしろい芸を見て、人々は一握りの米や干物を ご祝儀に出し、

~デコ廻しは、お礼を言いながら受け取る。

  やがて人心をつかみ定期的に訪問する。

デコ廻しが来たら、

        「もうすぐ春か・・・・・」

            「今年は、まだデコ廻しが来んが、春はまだじゃ~」

などと、季節感とデコ廻しの相関関係が発生し、親しみのある人間関係ができ情報網が完成する。

~・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ やがて、それぞれの土地に「草」が生え、草の奥から話し声が聞こえだす。

デコ廻しが、じっと聞く。~「草」には何の迷惑もかけない。


              「伊予で近々・一揆があるげな~・・・・伊予であったら、

                                    ソレより貧しい土佐の山里じゃぁ~・・だれぞ、やりよるじゃぁ~」



「草」の情報は、6時間位で、伊予から十和村地吉を通り十川村(高知県)に到達する。

それを庄屋や郷士が分析し、中村(現在 四万十市)の郡(こおり)奉行に報告して対処した。

デコ廻しは、1日に90キロ位の山道を平気で歩き、必殺の武術も身につけていたと言うが、人と接する際は、常にデコ廻しの笑いをもって、

「笑」(しょう)で「勝」(しょう)を制し、諜報活動に専念した。

       歴史に名を残さず、証拠も残さず、風と共に去り、水と共に流れ、確実に任務を遂行し、百姓Aとして死んだ。



私が十和村十川の 忍者の末裔方を訪問したとき、持ち主の御本人にもわからない、小さな像があった。

 それは「鵜飼いの老人」だった。
12729298064bdf5e0e63cd1_import.jpg


デコ廻し
          (高さ 10センチぐらい・手の平サイズ)






それも鋳型に流し込んで作られたような像で、ある程度・量産されたと思われる。

 江戸時代、庶民の生活状態を表現した金属製の像があっただろうか?

あるかもしれないが、私の記憶には無いので、この写真を民俗学の専門家まで送って、みてもらったところ、

~「わからない」との回答と同時に

            「おそらく、今の身分証明書のようなもの」

との答えだった。

 四万十川沿いの忍者は、川の流れが緩やかになった(入り江の状態)付近に住み家があった。

川が陸(オカ)でかこまれた場所。囲む漢字(囲・井)または、当て字(水の流れがユルクなった入り江・由類江)などの名前をもつ者

が人知れず活動していた。とのことで、仕事は農業や鵜飼いだった、らしい。


 極秘の指令を受けた者が、仲間内の確認のため、コノ像を見せ合い、連絡や確認を取ったのではないでしょうか?

失敗すれば、即・命がなくなる。昔の英傑が鉄の掟を守り抜きながら、必死で生きてきた生活の証です。まことに頭が下がる思いがします。

 今はどうだろう?「暴対法」と言う素晴らしい法律ができ、ヤクザが暮らしぬくい法律を駆使し、事務的な取り締まりが、やりやすくなった。

~その反面、・・ヤクザ社会がギャング化し、裏の裏のそのまた裏まで入り込み、不良外人と手を組んだり、

正業で何とかシノギ(資金)を得ようと焦るあまり、突然どっかの市長が射殺されたとか・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「株」のインサイダー取引で一角千金を狙う輩もおります。

 この1つ1つに警察が対応できるのだろうか?~ムリです。

今の警察には情報収集能力は、ありません。ムリしなくても「上」の言う通りやっておれば、上手に出世できる。

~・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・公務員です。

 公務員には「上級国家試験」と言われる古代からつちかわれた、崇高な尊い・ありがい・試験制度があり、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・現場を全くシラナイ・エライ人達が「ァ」という間に
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・国家の中枢に入り込める仕組みです。

ですから、現在の社会保険庁や警察組織・等々。・・・イクラ矛盾がでてきても、全く不思議ではなく、むしろ当然です。

こんな事を警察で言えば「おまえはアカ(共産主義者)か」で終わりです。

  私は、自分の事を「古い右翼」ぐらいに思っていますが、組織の評価は

「自分達の利益」が宇宙の中心にあるので、アカもクロもどうでもいいのでしょう。

 ま・年金問題に関しては、将来・税金と合体しなくては、何の解決にもなりませんし、今現在・政治家の言ってる事は、

全て選挙用のまやかしです。

 また警察組織の人員をいくら増員させたところで、情報収集能力のない巨大組織を構築し、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なんとなく「やってます」「がんばってます」との~ジェスチャーを宣伝するための方便に役立つだけです。

~・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なんの変化も無いでしょう。


~・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・視察調査中の警察官諸君。~反論は「現実」の「実績」だけで、たくさんです。まず・ムリだ。



視察調査中の警察官諸君。
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  1. 2007/07/22(日) 16:24:39|
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四万十川の名の由来

          四万十川

テレビで有名になり、風光明媚な情報はいくらでもありますから、

あまり知られてない話題になってない「四万十」を紹介したいと思います。

ただし、この紹介は、アマチュアの土佐民族学会員から聞いた事に私の意見を加えたもので、

学術的に絶対間違いないとは言えないので、この点を最初におことわりします。



 根無し、宿無し、浮き草の流れ流され、左遷された。

私の警察人生で、タダひとつ幸いであった事は、四万十川沿いに流されたことです。

 壇ノ浦の合戦に負けた平家の落ち武者と同じ道を、自分の子供を育てるための生活費を得るため彷徨し、

イヤな組織に奉公したわけですが、場所が四万十川沿いであった為、

土佐の国・発祥の歴史がわかり、同時に土佐の国の未来もおぼろげながら見えてきました。

船



      四万十川の名の由来

 数々の説があります。が、『四・万・十』川 と、ナゼ漢数字だけで名前が付けられたのか?

誰も書いておりません。

 私の記憶と貧しい知識から、全国で他にこの様な名前は無かった?ように思います。?

以前テレビの歴史番組で、奈良県の古墳から発掘された資料の中に、

難解な漢字の右側に、平仮名の無い時代、だれでも読めるような漢数字だけの当て字で読む

・読み方が書かれた資料があった。


 結局・四・万・十・と言うのは、何かの漢字の読み方を人々に知らせるための当て字ではないのか?と思います。

 次に

 現在では、一本の川、全てが四万十川と呼ばれていますが、江戸時代までの文献には、四万十川河口の町

・四万十市(旧・中村市)付近、つまり四万十川下流域では『渡川』または『大川』と書かれています。


 事実、国土交通省(旧・建設省)の河川名は「1河川」に「1河川名」を採用していますが、『渡川一級河川』
と言う大きな看板が川沿い(国道沿い)に十数年前まで設置されていました。

 一本の川でも、上流域・中流域・下流域には、それぞれの風土・歴史・文化・生活があり、古代からの支配者に
統括されていたのです。

 古代からの文献で「四万十」とハッキリ書かれているのは、四万十川の中流域

(旧 西土佐村・旧 十和村)から上流域である。との事です。(土佐民俗学)

 

古代の仏典

 文明発祥の地、インダス文明・ガンジス河流域文化等から中国大陸を経由し朝鮮半島を経て日本に到達する。

文化流入のルートはシルクロードと共に膨大な量の文献があり、私ごとき者が云々言う必要はない。


 釈尊が仏教を布教したガンジス河流域には網の目状に中州が発達し、中州の島・自体を「島(シマ)」と発音した。
      (日本の 駅伝・津波・過労死・芸者が国際語になったのと同様に「シマ」と発音した)


 島は聖地である。

ヤクザのシマもまた、組にとっては聖地である。“タトエ”は、悪いが仏教の用語が、そのまま日本語の語源になった例はいくらでもある。

 西日本の多くの島が“御神体”とされ、文献資料で見られる「三島」は輪廻転生の死生観を見る聖地である。



              徳島県 三島      愛媛県 大三島  など


宗教観に「絶後に蘇る(よみがえる)、つまり死んだ後に再び人は生まれ変わる」

・・・・・・・・・・・・・・・その為には、絶後の人が聖地に「渡る」必要がある。~これが葬式です。

 葬式とは旅立ちであり、決して終わったわけではない。四万十川中流域には“曹洞宗”がよく流布しており、
今なお、輪廻転生の死生観を見る事ができる。

 
 私が十和村の駐在所で勤務していた当時。(平成13年頃)

ある地域の葬式で、死者を座棺(座った姿勢で入れる・タルのような棺)で埋葬する。と聞きおどろいた。

 江戸時代までは、全国で座棺が使われており、現在の横向きに~横臥の姿勢で棺に入れるのは明治時代以降の
・・・・・・・・・・・・・・西洋文化の普及である。

座棺とは、座った姿勢が女性の子宮内の胎児の姿勢である。つまり、~今から生まれてくる胎児の姿勢を保つことにより、
・・・・・・・・・・・・・・・輪廻転生をねがった死生観である。


 話は変わりますが、南米インカ文明の「王」の墓は、王が座ったままで、“逆さ”にした白骨が発掘された。

これは、女性の子宮内の胎児が「生まれる姿勢」であり、

        ・・・~「いつでも生まれ出でる」~・・不死鳥のような“願望”が認められる。

 
 
 また、四万十川沿いの遺跡(縄文・弥生時代)には、住居の入り口に墓がある場合があり、

これは、死者の魂が女性に移り最も効率よく、輪廻転生ができるようにしたのではないか?との推測がなされています。


 聖地に渡り「絶後の人がよみがえる」~「三島」。

・・・・・・・・高知県幡多郡十和村、今は市町村が統合され窪川町十和、ここにも「三島」があります。

 

 四万十川中流域の「昭和」と言う地名の地域。この地域の四万十川に、今は・キャンプ場になっている

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・~「三島」~・・と言う中州があります。


12729297904bdf5dfeb96c6_import.jpg



     この「三島」は、聖地であり、江戸時代までは、

             「島」全体を・しめ縄・で取り囲んでいた。との事です。




 聖地に「渡り」輪廻転生を願う、

       おそらく古代では最も大事な儀式であった会場(聖地)~「島」~に「渡る」ための「川」。

          「島に渡る川」~島渡り川である。        


  古代の読み方で「島地」と書き「シマンジ」と読む。「シマジ」とは読まない。

 ならば、

             島渡川と書き「シマント・カワ」となる。



平仮名がない時代。この漢字の読み方を・誰でも読める漢数字の“当て字”の読み方を付ければ、

             島 渡 川           

              「四・万・十」川となる。



 京都や奈良のように高度な文化が古代から引き継がれた土地と、平家の落ち武者が、隠れ住んだ山里を、

・・・・・・・・・・・・・・・同じレベルで解釈していいものだろうか?


 私の素朴な疑問です。

もっと大らかな、地域の民の生活に密着した文化が、生活そのものである・日々の生活の糧を計算する“漢数字”で表現した。

       四・万・十・がそのまま土地に定着した。~その方が親しみもある。


 四万十川は「四万十の道」でもあります。

中流域・上流域に通じる枝川は、急流で浅い。
        川舟は、それぞれの地域の地形・水量・生活形態により変化する。

上流では、舟尾・高瀬舟と呼ばれる急流に強い小舟。~舟の先端が牛の角のようにフタツに別れ、ふなべりの厚い頑丈な舟が。

 下流では水量が多く、ユッタリした流れで、投網を使う漁をするため、広く、浅い。~水面から舟縁までの高さが、
テレビの時代劇で見る舟の半分位の高さしかない。


 一本の四万十川で、生活形態・水流・等が、全く異なる、それらの地域情報を・ひとつにしたのが

舟母(せんば)と呼ばれる大型の帆舟(帆かけ舟)であろう、と思います。

~川舟の帆舟です。

四万十川沿岸で取れる、炭やシイタケ・マツタケ・等(木材はイカダ流し)の山の幸は、上流から小舟で運ばれ、

途中・中流域から舟母(せんば)と言われる大型の帆舟に積み替えられ、下流の四万十市(旧・中村市)まで搬送される、

継舟制(舟をかえる)がとられ、中流域から大型の帆舟で、一度に大量の物資が運ばれた。


 舟母で運ばれた物資は、河口の下田港(海への出口)か、現在の四万十市に架かる、赤い鉄の橋(通称・赤鉄橋)

の少し上流にある小畑港(こばたけ・こう)に荷揚げされた。

                           《「港」は河原です。小畑は河原の名前です。》

 岸壁があるわけではなく、河原そのものが港です。ですから、今は何にもありません。



 今は、地元の人もココが、昔~「港」だった。などと言う話を知る人は、ほとんどいないでしょう。

ただ、この付近の地名は百笑(どうめき・100の笑いで、人々がどよめいた)です。

 その言葉の意味も、今の人は、知らないだろうと思いますが、港に着く舟の荷揚で活気づく男共が、酒や女に

轟々と騒ぎたてた夢の跡が名前だけを残した。



 舟母は四万十の道を通り、四万十の幸と情報を運び込んだと思います。四万十の文化は「応仁の乱」により、この地に流された、

京都の公家・一条家によって、ひとつに統括され、以来ひとつの文化圏になった。

 このあたりから同じ一本の川が「四万十川」「渡川」と複数の呼び名が付くようになった。と言うのが私の意見です。

もとは、輪廻転生の死生観をもつ、同じ「渡る川」でしょう。



警察組織にイヤケがさした私は、四万十川中流域の十和村で、この様な民族学・自然・祭り等を楽しんできました。

 山には信じがたい巨木があり、江戸時代以前から歴史的な侵略・変遷・争い・等がない「村」は、民俗学の宝庫でした。

 この村人が、昔ながらのやり方で作る「十和錦」と呼ばれる米(香り米)は、稲を束にしたものを逆さにして横木にかけた、

 稲木と言われる棚をつくり、天日(太陽)で、数日間ゆっくり干す。昔の日本なら、どこの農村でもやっていた事を

今でも忠実に引き継いでいます。

逆さにして干された稲は、茎の部分の栄養がそのまま下(稲穂)に移る。米を炊いた時なんとも言えない香りがする。

おいしい米です。四万十川に注ぐ、山から・わき出る山水で育てた米を食べながら、徐々に私の荒れた感情が癒され、

「悪魔と踊ろう」の記録を作り始めたのは、この十和村からです。



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  1. 2007/07/20(金) 23:30:39|
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